昭和54年3月17日 朝の御理解●③ ②
                                   明渡 孝

 御理解第65節『日柄方位は見るにおよばぬ。普請作事は、使い勝手のよいのが、よい家相じゃ。よい日柄というは、空に雲のない、ほんぞらぬくい、自分に都合のよい日が、よい日柄じゃ。いかに暦を見て天赦日じゃと言うても、雨風が強うては、今日は不祥のお天気じゃと言うではないか。日のお照らしなさる日に良い悪いはないと思え』


 はい。教祖様がこのように教えて下さっておることを、私どもがそのまま信じての生活。信じきっての生き方というものが身に付いてくるなら、いや、それでおかげが受けられるなら、もうこの一節だけでも、確かに私どもの、今まで勉強してきた、いうならば常識的なこと。とりわけ宗教の、あらゆる宗教が価値観を失ってしまうほどしの御教えだと思うですね。うん。
 問題は、この御教えがほんとに身に付いて、この通りの生き方ができると。そして、ね、生き方ができるだけじゃない。それによってほんとに人間の幸せというか、心の上にも今、降るもなからなきゃ照るもない。良い日もなからにゃ悪い日もない。もういつもが、いうならば天赦日じゃというような、いつも神様に許された心の状態というものが開けて、ね、そしてそれに、人間の幸せの条件がもし足ろうてくるようなおかげを頂いたら、私は、この一節だけでも、いわゆる教祖金光大神の御教えがいかにずば抜けて、いや、ずば抜けてというよりも、確かに宗教以前の宗教、前代未聞の教えである。ね。
 だから、またそこには、前代未聞と思われるようなおかげもそこに立ち現れてくるほどしの、私はあの、御教えだと思うんです。ね。問題は、それがほんとに自分の生き方の上に、それが血になり肉になってしまうまでがだから難しいと言や難しいわけです。合楽理念でもそうです。ね。
 「簡単です。明瞭です。おかげが確かです」と。確かにね、こういう御教えが身に付いてからの「簡単です。明瞭です」なんです。ね。「今日は何の日じゃろうか」という調べんでよいのですから、こんなみやすいことはないでしょう。ね。もう生活の全般にわたってこの生き方が身に付く。
 「信心はみやすいものじゃが、氏子から難しゅうする」とこう仰せられるが、私はその、教祖が仰るそのみやすいというものは、それを信じ、自分の血に肉にしなければ、みやすいということじゃないと思う。ね。いつも私その例を持って申しますように、自動車の運転免許を取るまでは難しいのであって、取ったらみやすいんだということなんですよ。うん。
 昨日私は、総会の時にあの、最後に高橋さんの例を持ってみなさんに聞いて頂いたんですけれども。もうこれは高橋さんだけのことじゃない、みんなひとりひとりの、同じことなんです。ね。
 たまたま昨日のその、お取次ぎを願われるそのことがまあ、ピッタリしておったというだけであってね。まあその一つの例をとると、今日は総会です。総代としておかげ頂かんならん。ちょうど四時頃から、会社の方の「社長がおってもらわなできない」といったような会合がある。ね。それを例えば、どうさせて頂こうかと、もうお伺いをするところに、合楽理念を丸暗記しておるだけで、身に付いていないということが分かるでしょうが。
 はっきりしておるでしょうが、合楽理念はどう教えるかということ。「一にも神様、二にも神様、三にも神様」これが合楽理念の信心を行じていく、いうなら姿勢なんです。構えなんです。だから、その構えができとりゃ、だからそういう時に、それをスキッとこう一蹴していけれる。「あっ今日はダメだぞ」と。「明日か(どっか?)都合の良い日に替えてくれ」と。「今日は合楽の総会だから」と。自分の心の中にはっきり答えが出てくる。
 だから、こういうところが、そこがなかなか人知人力というかね、または、その自分の考えをもってすると、いうなら常識的に考えたり、または、他の問題でもそうです。道徳的に考えたりすると、「これは、道徳的ならこうだ。常識的ならこうだ」という答えを出してから、合楽理念を持ってくるから答えが出ないのです。
 そこで、始めの間は危なっかしいところもあろうし、まあ場合には「信心には、なるほど度胸がいる」と言われるように、度胸もいりますから、それを完全と神様一本の方へ絞っていく。そこにはです、ね、なるほど、どういうことになりますか。
 願うたことが願い通りになったおかげはたいしたおかげじゃない。ね。願い以上のおかげ、いうなら夢にも思わんようなおかげであって始めておかげというのは、これは合楽理念をもってして、例えば言えれること。これは合楽理念とに限ったことはないでしょうけれどもね。金光様のご信心の中にはそういうおかげがありますよ。ね。
 けれども、(合楽理念?)をもってするならいつの場合でも、いうならば願い以上、思い以上、夢にも思わなかったというようなおかげがずっと続いていかなければいけないです。
 昨日の総会の最後に、文男先生が最後の挨拶をしておりました中にですね、何とか言ってましたね。「ストーリーの無いストーリー」でしたかね。いうなら「筋書きの無い筋書き」それがもう物の見事にです、ね、あれだけのたくさんな人が、あれだけの一日信心の研修をさして頂いたり、いうならそれが総会でもあり、研修でもあり。もうほんとに、あらゆる人達の例えば発表でもです、ね、もうほんとにそれぞれの、ほんとに「ストーリーの無いストーリー」ですよね。しかも神ながらに、それができていくということが、いうならおかげなんです。ね。
 それでいて、きちっとした、いうならば計画のもとに、してはいけないということじゃない。そういう信心を踏んまえての計画でなからにゃいかんです。いうならば「人力に見切りをつけて、神力にすがれ。人力自ずから湧く」であります。ね。だから、やはり合楽理念もね、自分の血に肉にするまでがやはり難しい。覚えたらこんなに楽なことはないというのです。ね。
 昨日私、昨夜の夜の御祈念の時に、末永先生があの、総会の時にちょこっと話しておりました。「和道十全の教え」という。確かにそういう教えを頂いたことがある。白扇に私が書いとったのを若先生が、「これは私が頂く」と言うて持って行ったことがあるが。「あれはどういう時に、どういうふうに頂いた御理解だったかね」と言うて夕べ聞きましたら、数ヶ月前に、あれはやっぱ頂いた御理解。
 あれは先生があの、「柔」と「柔道」」ということを、柔道、剣道・柔道の「柔道」ですね。柔は、ね、「柔」柔術のことなんです。をここにお知らせを頂いて、あのお知らせを頂いたんです。
 柔ということは「和道」和の道だとね。柔らかい道だと。柔道というのは、だから柔道の「柔」でなくて、数字の「十」の道と頂いて、ね、金光様のご信心、いや、合楽で言うておる合楽理念は、ね、もう「和道十全の教え」だということでございます。
 これはもう、道徳的に言うてもです、なら教えであってもです、または、あらゆる宗教がです、この和の道を説かない道、宗教やら道徳やらはありませんよね。「和の道」平和の「和」です。ね。
 ところが、その説く「和の道」で、人間が助かるとか幸せになるとか、ね、いうならそこには奇跡的なおかげまでも伴うというようなものではないんです。他の「和の道」というのは。特に道徳的な「和の道」というのは、そりゃ家庭が円満であればいいんですけれども、そこにね、不思議な、いうなら神仏の不思議な働きが現されると。いわゆる示現したまうと。「神の示現」「示現」というのは、神仏が不思議な働きを示し現すことだと言われておる。
 そういう不思議な働きを示し現すというほどしのものではないということ。それは十全でないからだということ。ね。金光教の教祖が言われる「和賀心」というのは、もう十全の教えなんです。「和道十全の教え」なんです。ね。その「和道十全の教え」というのはです、ね、いうならば、因縁も、いうならば、罪も、その教祖が言われる「和道」「和賀心」は、ね。
 たちどころに、和賀心をもってするならば、ね、どんなに因縁の深い人でも、罪深い人であっても、助かることができるというほどしのものだということなんです。ね。だから、それが教祖が仰るように、ほんとうに、実際にそうであるとするならばです、ね、過去の宗教とか道徳とかというものは、なら価値そのものを失くしてしまうわけ。価値観がなくなるというほどしのものなんだ。ここ四・五日言われるのは、そのことなんですよね。
 だから、●③合楽の信心、合楽理念はね、そういうたいしたものだということを、まず信じて空暗記して、高橋さんじゃないけど。ね。そしてそれを自分の血に肉にするまでが、いうならば難しいと言や難しい。度胸がいると言や度胸がいるということになるのじゃないでしょうか。ね。
 これ私は、それをなら、自分の血に肉にしておるから、私にとってはみやすいことであり、「はあ、もう先生どうしましょうか」と言うて、それこそ泣き出したいごたる難儀な問題が起こっておっても、私が「それはおかげばい」と言えれるのは、そこの体得ができておるからなんです。ね。
 だから、体得のできた者なら、「こげんみやすいこと、どうしてそげんいつまでも分からんの」とまあいうようなもんです。ね。「自動車の運転ちゃそげん難しいもんじゃなかばい。もうほんとに自分の手のごと足のごと動かせるもんばい」と、ね、いうところまでが、やはり難しいと言や難しいけれどもです、それを、なら容易にする手立てというのがです、いうなら合楽理念をあらゆる角度から、それこそ子供でも分かるように説いてあるわけなんですよ。ね。だから、それをいっちょいっちょ、行の上に現して頂いていかなければできない。●③
 確かに、合楽で言われておるのは「和道十全の教え」です。ね。十全ということは完璧ということです。人間が幸せになるという利点においてだけは完璧なんです。ね。
 他の全ての教えとか、宗教とかね、もう第一教えと言われるものが、それが全部人間の幸せのためにある教えであるとするならばです、ね、そういうものは、中途半端なものであって、十全ではない。だから、価値観までも失ってしまうというほどしのことが、今合楽では説かれておるわけですよね。
 日々がね、ああしてこうしてという計画なしにであっても、その結末は、「ほんとに今日も有り難い、ほんとにもったいない一日でした」とお礼の言えれるような一日でありたい。ね。ためには、もういよいよもって、和道十全の道を習い、それを自分のものにする。ためには、いよいよもって、いうならば素直心が必要だということになります。
 ●②昨日、光昭が頂いたと申します「傘と提灯」のお知らせです。傘も提灯も竹が芯になって、それに紙が付いておる。提灯も、ね、竹へごがこうある。そしてそれに紙を貼ったのが提灯。傘もそうです。ね。竹の骨に傘があの、紙が付いておるのが、そこにいわゆる安心があり光がある。それには何と言うても「素直」いうなら竹が芯である。●②
 私どものそれが、少しばかり、なら例えば高橋さんにいたしますと、昨日もそれを言われるんです。「あんたそげな、それこそ伺うことそのことがあんた間違うとるよ」と。それでもこれは、例えばこうやって、いうなら会社なら会社を経営していくためにはです、これは、ここんとこじゃ電話をかけなきゃおられん。ここんとこには、こう言わにゃおれない。それは結局高橋さんの知恵です。考えです。ね。
 だから、そういうことをポッと捨てられる度胸というか、には、ひとついよいよ馬鹿ほどの、いわば馬鹿ほどの(?)が、馬鹿と阿呆の信心が要求されるわけですそういう時に。ね。それが、馬鹿じゃないけんでなかなか外しきらんのですけれども。ね。
 「馬鹿と阿呆で道を開け」と仰る。その竹ができたら、神様の方がそれに寄り添うて下さる。そこには、安心があり、提灯の、いうなら光がある。怖いと思うておったことも怖くない。濡れねばならん時に濡れんですむというようなおかげが頂けるほどしのおかげを日々頂いていくことのためにです、ね、いよいよ信心を、いうなら合楽理念を和道十全の道をです、十全の道をです、身に付けて行く稽古をさしてもらわんならん。
 この六十五節の一節を頂いても、もう卓越した教祖のご信心。いや、宗教以前の宗教と言えれる内容を持っておる御教えです。だから、そういう素晴らしい御教えだが、あると知っただけでは何もなりません。それが自分の身に付かなければ。ね。それこそ、「良い悪いはないと思え」ね。そこには、損とか得とかということを考えるなというほどしの、いうならば道をです、ね、行じさしてもらい、安心を頂き光を頂くおかげを頂きたいと思うですね。どうぞ。